靖国神社

先週日曜日に、大阪から東京に戻ってきたその足で、ふと思い立って行ってみました。やっぱ、自分の目で見てみないと、ここがどういうところかわからなかったので。
入り口近くにはたくさんの右翼の街宣カーが止まってました。最近あまり見かけなかったのですが、こんなにたくさんの右翼カーを一度に見るのは初めてでした。なんというか・・・ある特定のライブで、アーティスト専用ペインティングを施した車(例えば浜崎カーとか)を見てるような、そんな雰囲気に近いものを感じさせられました。
靖国神社にまず参拝。参拝しているのはごくごく普通の人達。あまり神道方式の参拝に拘っている人もおらず、お賽銭を投げて2拍してお祈り・・・という、普通の神社でよく見られる風景でした。
あまりに普通すぎて、靖国神社の特徴が全然わからなかったのですが・・・神社の右側に「遊就館」という建物があるのに気付いて、入ってみました。入り口にいきなりゼロ戦が置いてあるのにまずビビリました。な、何故神社にこんなものが・・・とりあえず入場券を購入して館内を一通り見てみました。
館内は日本古来からの「軍」に関する資料でいっぱいでした。朝廷だったり幕府だったり戦国武将だったり・・・ただ、やはり資料が充実するのは明治維新以降の日本軍の資料でした。「戊辰戦争以来の戦没者を祀る神社」としての靖国神社のその存在意義は、やはり一度見てみないとわからないものだと実感しました。
明治以降の歴史資料は、一貫して「最近の新しい歴史史観」に基づく内容でした。というか、この靖国神社の思想が新歴史史観の大元になっているのかもしれません。数多くの軍隊関連資料があり、そして戦没者の写真が陳列されてありました。
自分は「どのようなことでも、たとえ今はそれがどんなに無駄なことだとか無意味なことだったとか思っていることでも、それは絶対に何か自分の役に立っているはずであり、自分の血となり肉となっている筈だ」という主義なんですが・・・今回は「自虐史観」に対してそれを実感させられることになりました。私は靖国神社を見ても、日本人として想いを高揚させることはなく、第一に「これは日本人にしか受け入れられないだろうな」という意識を強く持ちました。それが、自分の心にしっかりと植えつけられている、ナショナリズムに対するブレーキであることは明らかで・・・それは今後の自分にとって決してマイナスなことにはならないだろうと実感します。
・・・がしかし、靖国神社を見て、自分は結果として小泉首相靖国参拝に対して肯定的意見を持つに至りました。国というものが存在している限り、国の為に死んでいった人達は、当時の国策の誤り等とは完全に切り離して、永久に供養し続けなければならない。日本では死者は最大級の義をもって祀り、供養しなければならないし、その伝統を国家自ら明確な形で国民に見せ続けなければいけない。日本の誤りは国策の誤りであり、その責任を特定の死者に押し付けるような決着は絶対に出来ないし、してはならない。これは日本独自の死者に対するタブー感とも繋がるもので、その感情は日本人にしか理解出来ないだろうし、無理に理解を求めることも不可能だろう。だから・・・靖国神社で(A級戦犯も含めて)戦没者を祀るという行動に対して近隣諸国から猛烈な反発があるというのは、靖国神社自体が歴史に対する「思想」を持っているというその実情を見れば、その感情は非常に理解出来るけど・・・だからといって日本は靖国神社参拝を辞めるわけにはいかない。辞めてはいけないんだと思います。
難しいなぁ・・・この感情がホンのちょっとしたことで、その「日本伝統の死に対する感情」を飛び越えて、靖国神社の歴史思想に繋がるのは目に見えている。しかし、靖国神社の存在意義を見ると、そのような歴史思想になることを否定も出来ない(そもそもそういう思想を持つのは自由であるのだし)。しかしそこに国家が加わると、当然危機感を持たれるだろうし反発されるだろう。ナショナリズムというもののやっかいさ、恐ろしさをほんの片鱗ですがかいま見たような気がしました。